社会人を経て看護師になる人も増えてきました。A・Kさんもその一人。短大卒業後、建設会社に就職し、見積もりを作成する部門で働いていました。
そのまま何事もなかったら、Aさんは看護師にはならなかったかもしれません。でも、思いがけない借金苦に陥り、自力で脱したとき、かつてなりたいと思っていた看護師になろうと決意します。

つらいときや苦しいとき、辛抱して乗り越えた先にチャンスがある。自分の人生を力強く進んでいくために、4回にわたってお伝えするA・Kさんの転職ストーリーをじっくり読んでみてください。
*看護師転職ヒストリーAさん 1回目2回目3回目4回目(最終回)

A・Kさん(42歳)のプロフィール

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●看護業界歴…12年

●看護の仕事に就く前…看護専門学校

●転職回数…6回

●現在の勤務先…介護老人保健施設

●いままでの勤務先…大学病院(小児科)、総合病院(不妊外来)、総合病院(整形外科)、保育園、療養型病院(地域包括病棟)、総合病院(呼吸器内科)、介護老人保健施設

●保有資格…准看護師、正看護師

OL時代に襲った、人生最大のピンチ

高校卒業後、私は地元の短大に進学しました。
看護師になりたいとは思っていたのですが、近隣に看護学校はなく、「家から通える所以外は×」という親を押し切ってまでの強い気持ちはありませんでした。

地元の短大に行き、地元で就職して結婚・・・親が敷いたレールに沿っていくのが普通の世代でしたので、私もそれで満足していたんだと思います。
ところが、短大を卒業して建設会社でOLをしていたとき、思わぬ出来事が起こりました。事業を始めた友人が経営に失敗。その金銭トラブルに巻き込まれてしまったのです。

友達の苦境をほっておけず、私にできる範囲で手助けをしていたつもりでした。でも、いろいろあり、私が一人で借財を負うようなかたちになってしまって・・・。自分に何ひとつ責任はないのに、意地でも一人で返済するつもりでいたんですから、私って本当にどうにかしていますよね(苦笑)。

もちろん、そんなことは誰にも言えません。それで家族には「会社の研修が東京であり、数カ月ほど行ってくる」と嘘を言い、地元の北海道から上京しました。

東京の友達の家に転がり込み、それから昼夜なく働きました。会社の事業所が東京にあり、日中はいままで通り建築の仕事をし、夜はバイト・・・寝る時間を惜しんで働き、ある程度、返済の目処が立ったとき、はじめて父に電話で事情を打ち明けました。

「友達が招いたこととはいえ、火の粉を進んでかぶった以上、お前が言うとおり、確かにお前の問題だ。自分の落とし前は自分でつけるのがお前らしいと思うし、最後まで頑張りなさい。ただ、帰ってくる場所はあるから。それだけは、忘れないで」
泣くことさえ忘れていたこの数カ月。「いつでも家に帰ってきていいんだよ」という父の思いが胸に沁み、こらえきれず涙が溢れました。

看護師になるチャンスは、いましかない

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1年と少しですべて解決してまもなく、夫と知り合い、結婚しました。
夫は公務員で、私には専業主婦となって家庭に入ることを望んでいたようでしたが、私は働くつもりでした。夫にもし何かあった場合でも、家族が困らないように経済力を身につけていないといけない。お金のことで辛酸を舐めたので、もう2度とあんな苦労はしたくなかったんですね。

このとき私は25歳。これからのためには資格を取ることが必要だと思いました。このとき、まっ先に思い浮かんだのが、かつてなりたいと思いながら断念していた看護師への道です。

「結婚したのに、どうしてこれからわざわざ学校に行って看護師になるんだ?」。夫をはじめ、周りは大反対。でも、私の決意が固いことを知り、理解してもらえました。

こうして結婚した翌年から准看学校、そして正看課程の看護学校に行き、3年後に看護師になりました。

准看学校の2年間は、昼間はクリニックで看護助手として働き、夕方から学校へ。正看学校の2年間はひたすら勉強に打ち込み、学年中2番の成績で卒業・・・必死だったのは、早く看護師になり、1から自分の人生をつくり直したかったからです。

チャンスはいましかない。このとき以来、私はそう自分に言い聞かせています。
誰にも平等に与えられている時間をどう使うかは、人それぞれ。でも、いま、このときが新しい一歩を踏み出すチャンスのときだと思えばパワーが湧き、どんなことも乗り越えられると思っています。

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次回は、30歳で看護師となったAさんの歩みをお伝えします。

*看護師転職ヒストリーAさん 1回目2回目3回目4回目(最終回)

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