2度目の転職をして間もなく、お母さんが病に倒れ、闘病を家族で支えることになったM・Yさん。退職をして看病に行く時間をつくりましたが、ブランクがあいていくことに次第に不安が募っていきました。けれど、そこでMさんは、看護師でもある自分に気づきます。

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M・Yさん(41歳)のプロフィールimage001

●看護業界歴…10年

●看護の仕事に就く前…教育関連事業所、准看護専門学校、看護専門学校、助産師学校

●転職回数…3回

●いままでの勤務先…大学附属病院(産科)、総合病院(産科)、リハビリ病院(回復期病棟)

●保有資格…准看護師、正看護師、助産師

病で倒れた母親の看病のために退職

そろそろ環境を変えてみたい・・・。特に深い意味はなく、無性にそう思うことって、ありませんか? この時の私はそれ。いままでもいろいろな地域で暮らしてきたし、また違う所へ行ってみたかったんですね。
全面的に関わらせてもらっていた両親学級(出産を控えた妊婦や、その配偶者を対象にした体験学習)の改訂が軌道に乗ったのを区切りに退職し、同じ西日本の別の病院に転職しました。ところが、その2カ月後、母親がくも膜下出血で倒れてしまったのです。

急性期病院からリハビリ病院に移り、その後は介護施設へ・・・・・3年後の昨年、母は65歳で亡くなりましたが、闘病の母のために娘としてできるだけのことをしたいと思い、発病した1年後に病院を辞めました。
といっても、母の面倒は弟夫婦がみてくれたので、私は時々、母のところに行って看病する程度です。それでもフル勤務では無理があり、退職はやむを得ない選択でした。

母が病気になるまでは、私はめったに母に連絡をとったことがなく、お互いに「便りがないのは元気な証拠」くらいに思っていました。大学を出てから看護学校や助産師学校に行ったときも母に相談しなかったし、母の前で涙を見せたこともありません。
そんな私が一度だけ母に弱気を見せたのは、助産師学校のとき。実習がつらく、電話で話しながら、思わず泣いてしまったんですね。すると母は、「自分がやりたくて始めたんでしょう。もう少し頑張ってみたら」と言って、お米や食料をどっさり送ってくれたんですよ。

普段は何も言わないけれど、何かあれば助けてくれた母。そんな母親への、微力だけれど親孝行のつもりで決めた退職。後悔はないものの、助産師として一線を退き、ブランク期間を持つのは、正直言ってやはり不安でした。

リハビリ病院で看護師として働いてみたい

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退職はしたものの、何も働かないでいるわけにはいきません。自宅のある西日本と母が暮らす関東を行き来する交通費もかかるため、バイトをすることにしました。
前職の病院の師長さんがとても良い方で、事情を汲んでいただき、産科での夜勤を月2回。このほかに派遣会社に登録し、訪問入浴の仕事をしました。

訪問入浴はヘルパーさんたちと数人のチームを組んで行い、そこに必ず看護師を置くのが決まりです。熱や血圧を測ったりして入浴していいかどうか判断したり、入浴後に薬を塗ったりなどの処置があるので、ナースがいなければいけないんですね。

訪問入浴は、看護学校時代にもバイトでやったことがあるんですよ。その前に准看の資格を取っていたのでやれたのですが、何年ぶりかでまたやってみると、すごく楽しい。ヘルパーさんたちと一緒に体も洗うし、お風呂に入るのを楽しみにしているみなさんに喜んでもらえるのが嬉しいんですね。

自分は助産師だったので、看護師として働くことは考えていませんでした。でも、こんなふうにナースとして働いたり、母がお世話になっていたリハビリ病院に行くうちに、「自分は看護師でもあるんだ」と意識し始めたのかもしれません。
そういえば、助産師学校時代、看護学校の先生や友達からも、「助産師になれなかったり、続けられなくなったら、看護師としていつでも出直せばいい」と勇気づけられたことも思い出しました。

進む道はひとつではなく、いくつもある。そう思い、関東へ戻ることに決め、次の転職先を探しました。遠距離介護は体力的にもそろそろ限界に来ていたのと、リハビリ病院で看護師として働いてみたいと思ったからです。

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最終回は、リハビリ病院で働きながら、次の方向を考える現在の思いをお伝えします。

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