看護学校を卒業してC・Sさんが就職したのは、高度専門医療研究で名高い国立病院。配属は、呼吸器内科と呼吸器外科の混合病棟でした。

同期が1年以内にみんな辞めるほどのハードな業務も、先輩や患者さんたちとの触れ合いが楽しく、苦にならなかったCさん。けれど、患者さんの最期を看取らざるを得ないことも多く、そのつらさに次第に心が折れ始めていきました。

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C・Sさん(34歳)のプロフィールimage003

●看護業界歴…13年

●看護の仕事に就く前…看護専門学校

●転職回数…2回

●いままでの勤務先…国立病院(呼吸器内科・呼吸器外科)、総合病院、大学附属病院(救急外来、内科病棟、外来化学療法室)

●保有資格…正看護師、介護支援専門員(ケアマネジャー)、3学会合同呼吸療法認定士

日勤、準夜勤、夜勤3交代の激務も頑張る

看護学校を卒業して就職した国立病院では、呼吸器内科と呼吸器外科の混合病棟に勤務しました。
いまは変わったかもしれませんが、当時は3交代制。日勤が5時までとしても、残務処理などもろもろあって、終わるのは10時過ぎ。その日に深夜勤があれば、病院裏の寮に急いで帰り、ご飯を食べ、お風呂に入ってから、夜中の12時から朝9時まで。もちろん仕事はそこで終わらないので、帰るのはお昼頃。

3日勤して、夜勤。次に午後4時から夜中の1時までの準夜勤をして、お休み・・・・だいたいこんな週間サイクルで繰り返すのですが、激務に耐えかね、同期3人のうち2人が1年もしないうちに辞めました。

銀行員から看護師に転身した同期の人は、「ナースのこんな働き方はやっぱりおかしいと思う」と。社会経験があるだけに、そんなふうに思ったんでしょうね。でも、私はこの世界しか知らないので、ものすごく忙しいけれど、こういうものとしか考えていませんでした。

同期がみんな辞め、新人は私ひとりになったこともあり、先輩がとてもやさしくしてくれたんですよ。激務も苦にならなかったのは、いろいろ気にかけてくれ、育ててもらった上司や先輩たちのおかげ。

集中力がすごい人、記録が丁寧な人、患者さんと関わる姿勢が素晴らしい人、後輩が困っているとすぐ声をかけてくれ、痒いところに手が届くように教えてくれる人・・・・それぞれの先輩のいいところを見て、一歩でも近づけるようにと思いながら夢中で働いていました。

でも、こうしてアッという間に3年が経とうとした頃、自分の気持ちがだんだん疲れ始めていることに気づいたのです。

患者さんが亡くなっていくのが、本当につらい

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患者さんは肺ガンを患った人が多く、1年間に40~50人の方が亡くなりました。末期の肺ガンの予後は、だいたい2、3年。私が入職してから担当させていただいていた患者さんの具合が悪くなり、死期が近づいてきた年でもありました。

家族とまでは言いませんが、看病をし、ご飯を出し、一緒に生活をしてきた人たちです。回復して退院される時は心から嬉しく、息を引き取られた時は泣くほど悲しい。最期を看取るのも看護師の仕事とわかりながらも、家族のように接してきた人たちが亡くなっていくのは本当につらいことでした。

私が新人のときから可愛がってくれていた76歳の患者さんの容態が悪くなり始めた頃のことです。この方はたまたま私と同じ高校出身。剣道をされていたとかで、「いまも高校の剣道場に自分の名前の木札があると思う」という話をされたんですね。

頼まれたわけではありません。ただ見てみたいと思い、高校時代の担任の先生に連絡し、道場に入れてもらいました。旧制中学時代のことですから、もうないのではと思いましたが、ちゃんと残っていたんですよ。写真に撮り、その方に見てもらうと、本当に喜んでいただけました。

このとき、私はもう退職しようと決めていました。「心が疲れたので、休みたい」。ただそれだけ。辞めると決めたのは正しかったのか、せめてこの患者さんの最期を看取るまで残るべきか・・・。悩みましたが、少し休んでからまたすぐ戻ってもいいという気持でした。

私が退職してまもなく、この患者さんは亡くなり、葬儀に行きました。
その頃、私は、次の職場はまだ決めないまま、心にポッカリ穴があいたような感じで、何をするともなく過ごしていました。

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次回は、しばしの休息をとったあと、次の職場を探して動き出すCさんの様子をお伝えします。

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