政府がさかんに「介護離職ゼロ」を掲げているのはみなさんもご存じでしょう。介護と仕事の両立ができず離職する人は、年間10万人もいると言われています。S・Iさんもそうした現実に直面した一人。ナースになって3年後、お父さんが末期ガンの宣告を受けたのです。
介護するお母さんを助け、「悔いのないように父を看取りたい」。すでに結婚していたSさんでしたが、ご夫婦で両親と同居し、職場もクリニックへと移りました。

*Iさんの転職ヒストリー 1回目2回目3回目4回目(最終回)

S・Iさん(42歳)のプロフィールimage003

●看護業界歴…10年

●看護の仕事に就く前…金融系大手企業

●転職回数…4回

●いままでの勤務先…大学附属病院(循環器内科・心臓血管外科)、クリニック(人工透析室)、医院(小児科・内科外来)、老人ホーム(健康管理室)

●保有資格…正看護師

結婚、そして、父の病気。人生の大きな節目を前に

OLからナースへの転身を決めたのが、26歳。この時、母には、「どうしてお嫁に行かないの?」と反対されました。適齢期を過ぎるというのに、これから看護学校に行くというのでから、それは心配だったんでしょうね(笑)。

結婚は、大学病院に就職した1年後にしました。
看護学校時代にお友達に紹介された人でしたが、つきあうようになったのは就職してから。それまでは、たまに食事したり遊んだりするグループの中の友人の一人だったんですよ。私はとにかく、看護学校を卒業して資格を取ることに必死。「恋愛なんてできない!」と思っていましたし。

国家試験に受かり、大学病院に就職して半年経った頃です。国家試験の合格祈願のお守りをもらっていたので、報告とお礼をするために、久しぶりに連絡したんですね。

「ナースになったよ。ありがとう」「よかったね、おめでとう」。それからだんだんおつきあいが深まって。あとで聞いたのですが、私と初めて会った時、主人は「この人と結婚するかもしれない」と思ったんだそう。もしかしたら、私がナースになるのを待っていてくれたのかもしれませんね。

そんな、結婚して間もないころです。定年を迎えた父に、健康診断でガンが発覚。通院と短期入院で抗ガン剤治療を続けることになったのです。
母ひとりでの介護は大変で、母のサポートをするために、父母と同居をすることにしました。夫も「そうするべき」と言ってくれ、両親も喜んでくれたのですが、問題は私の仕事です。

日勤でも帰宅が深夜近くになるハードな病棟。父に何かあった場合を考えても、このまま続けるのはやはり無理がありました。
考えた末、3年間勤務した大学病院を辞め、クリニックに転職しました。

クリニックで仕事を続けながら、父を看取る

image001

転職したのは、夜勤のない人工透析が中心のクリニック。父の介護の事情を院長先生にお話しし、「いつ、なんどき病院に駆けつけなければいけないか、わかりません。それでもよければ」とお願いし、快く了承していただいたので、安心して働くことができました。

父が亡くなったのは、それから1年後のこと。娘としては、悔いのないように看取りたいという思いで過ごしてきたし、最後の親孝行はできたのかなと思っています。ただ、たまたま私が看護師であったために、看取ったときの感情は少し複雑でした。

たとえば、痛みをコントロールする薬が使われ始めると、説明されなくても死期が近づいてきたことが分かってしまう。臨終の時も、モニターの心臓の波形を見て、母に、「いま話しかけて! お別れを言って!」と、つい言ってしまって。職業柄、見えてしまう、わかってしまうことがあるのはしょうがないけれど、つらかったですね。そんな、どこか冷静でいる自分が。

私がOLを辞めて看護学校に行くと言い出した時、父はこう言ってくれました。
「自分の人生だから、やりたいようにやりなさい。それを判断できる年齢でもあるし、親がどうこう言うことではない。ただ、どんな職業でも、自分で食べていけるようになりなさい」
・・・・そうですね。そんな父だから、自分の最期に娘がただオロオロしていたら、余計に悲しんだかもしれませんね。

父が亡くなったあともここのクリニックで働き、6年ほどお世話になりました。父の葬儀などでも院長先生にいろいろとよくしていただいたので、できる限りお役に立ちたかったのですけれど・・・・。
5年前に起こった東日本大震災をきっかけに、また転職を考え始めました。

○      ○      ○

最終回は、待望の赤ちゃんが生まれるまでと、育児をしながら仕事復帰をめざす現在の思いをお伝えします。
*Iさんの転職ヒストリー 1回目2回目3回目4回目(最終回)

ナースエージェントの求人数は国内最大級! 自分らしい仕事が探せます。